JNRの結婚後ブログ

PAでの婚活の記録と結婚後の生活、雑記

復帰までの道のり4

休暇中にもう一つ勉強になったのは、人間関係の機微です。

D・カーネギーの「人を動かす」や「道は開ける」は古いアメリカの事例であり現代の古典とも言えるものですが、対人関係での対処として特に参考になりました。

人間関係のトラブルに対し、敵対的関係を避けて、友好関係に持っていくか、ということがなんども語られています。

あくまで対人関係そのものが主であり、組織内での人間関係に触れているわけではありませんが、基本は同じと思います。

相手を尊重し、承認欲求を満たしてやり、いかに自分の目的を達成するため相手に自発的に動いてもらうか、文字にするとたったこれだけですが、実践するのは自分なりの訓練や練習が必要でしょう。

 

もちろん、自分がどう思われるかは相手の世界ですから、最終的にはどうしようもないのですが、何も好き好んで攻撃的・敵対的な言動を取ってわざわざ敵を作る必要はありません。

また、普通の発言であっても意図せず相手のメンツを潰していることもあり得ます。

会議のような人が集まる場では特に注意しなければ、自分の善意によって無自覚に恨まれることにもなるかもしれません。

こちらの方が自覚がない分だけ怖いですね。

 

 

今まで、どこか正しいことを主張すれば、それが通ると考えていた節がありました。

正直、組織の政治力学を本当の意味では理解していない愚かな行為だったとしか思えないのですが、案外陥りやすい罠ではあるのかもしれません。

職位が上の人ほど批判されることにはなれていないし、メンツは権威・権力に直結するだけに、批判には敏感です。

何より組織内で何でも白黒決着をつけることは危険な行為です。

相手をやり込めても、相手が組織を去ることは稀です。

長期戦となる組織内政治において、相手の恨みを買うことは必ず禍根を残します。

そのうち思わぬところで攻撃されたり、足を引っ張られるでしょう。

 

正しいことが重要なのではなく、誰が言ったかが重要、とはよく言ったものです。

ほとんどの人は論理的な正しさや理屈では動かないし、組織ともなれば全体の利益以上に自部門や自分の利益が優先されることは普通のことです。

それが政治的影響力に直結するとなればなおさらです。

 

組織の中での政治的関係を理解せずに、組織の中でうまく動くことなどできるわけがありません。

発言力が欲しいなら、仕事で実績と信用を積み上げ、人間関係には注意を払う、不用意に敵を作らないなど、地道で細かな配慮が必要になります。

自分の正当性を主張するあまり、攻撃的な言動を取れば確実に敵を作ります。

 

 

別に人付き合いが好きだったり得意である必要はないと思いますが、人のメンツを潰さない配慮は絶対に必要だと思います。

 

 

どこでも政治的関係を理解しない「正義の人」が煙たがられ、受け入れられないのは自明のことでしょう。

「正義の人」は内心では承認欲求を満たしたくて「正しい主張」を繰り返すのでしょうが、結局のところその正しさを使って無自覚に人を攻撃するだけですから、認められるわけはないのです。

仮に、相手が正しさを受け入れたとしても、メンツを潰されたと感じていれば確実に敵意が蓄積されるでしょう。 

「正義の人」であり続ける限り、自分自身で解決すべき承認欲求を他人に向け、承認を得ることに執着しているので次第に息苦しくなるに決まっています。

自分は常に正しい、受け入れない周りが悪い、間違っている、と言って敵を作るのですから。

自戒を込めてではありますが、一番欲しい他者からの承認を求めながら、承認からもっとも遠くに位置しているのは、側から見れば滑稽というか悲劇というか、哀れですらあります。

 

 

 

今更ながら、どのような人間関係であっても特段の配慮が必要であると理解できたのは大きな気づきでした。

今まで自分がどれだけ人間関係や政治的関係に無知であったか、どれだけ敵を作ったか、考えると正直恐ろしいものがあります。

ただ、今の時点から今後の自分の行動を改めることはできます。

 

評価は周りの人が勝手に行うでしょう。

他人が勝手に行うことなど、自分ではどうすることもできません。

もはや他人からの評価自体には価値を見出してはいないのですが、組織の中にあって政治的影響力と周囲の評価は相関しますから、無視できないことも事実です。

他人の評価を求めて承認欲求に振り回されないことが重要ではないかと思います。

 

結局、他人のことより自分のミッションに集中することから始めるべきなのでしょう。

ただ、働く環境と上司だけは極力良いところを選ばなければ自分の今後に関わります。

よくない環境であれば変えた方が結局は良いのではないかと思います。

必ず良くなるとは言えませんが。

復帰までの道のり3

個人心理学(アドラー心理学)でもう一つ参考になったことがあります。

それは課題の分離という考え方です。

 

自分のやるべきことに集中し、他人のやるべきことは切り捨てる。

そして、自分のことに他人を介入させないし、他人のことに介入もしない。

 

これも以前は、自分がコントロールできないことは考えない、という似たような考え方を取り入れていたのですが、課題の分離で自分と他人を線引きし、自分のミッションに集中するという点で考え方が明確になりました。

自分がコントロールできないことは考えない、では他者との関係性が明確でないので、実際の行動で結構ブレがあったように思います。

何か納得いかないことがあっても、むりやり自分に言い聞かせるような、そんなどこか無理をしているような感覚です。

 

課題の分離を理解すれば、過去の仕事に引き摺られることもなかっただろうし、断固として協力要請(という名目の吊し上げ)など自分の課題ではないと、受け入れなかっただろうと思わざるを得ません。

自分に本当の自信がないから、過去の仕事の実績に依存していたのですね。

頼られる自分でありたいという承認欲求に飲まれていたわけです。

しかしながら、他人からの承認などいくらあっても常に不満しか残りませんし、際限なく求めていくことになります。

改めて考えると、何をそんなに他人に承認など求めていたのか、気持ち悪くて仕方がない気分でした。

 

自分が何をしようが(反社会的行為でない限り)他人には関係ないし、それにいちいち承認など必要ない。 

これを知らず知らずのうちに投げてしまうと、自分の人生ではなく、他人の人生を生きるハメになります。

特にこの数年間は仕事面で決断力を失い、他人に流されるまま困難な状況に陥り、最終的にダウンしましたが、それも課題の分離を上辺だけしか理解していなかったから起きたことだと思っています。

自分でコントロールできないことは考えない、では周りに流されるような状況になった時に抵抗できないんですね。

流されることの言い訳として都合よく機能してしまうわけです。

 

 

自分の時間を生きていないというのは、改めて考えるとかなり辛いものがありました。

職場の状況は明らかに自分に合っていないし、やめたくて仕方がないのに、なぜか周りからの期待とか、仕事上の求められる役割に拘泥し、身動きが取れなくなってしまいます。

嫌なら上に掛け合うなり、幼稚ですが無断欠勤で意思表示でもするか、それも無理ならさっさと辞めるなりすればよかったわけです(そんな簡単に辞められないとか、そういう話は本題ではないのでおいておきます)。

どうせ仕事なんて自分がいなくても、いざとなれば誰かがなんとかします。

少なくとも自分を犠牲にしてまでやるようなことではない、そのはずです。

 

なにより自分が本心で嫌々なのに、それを無視して仕方なくやるというのはエネルギーを浪費して本当に消耗します。

役割を理解して、割り切って演じるのとは全く違います。

こんな状況になると、自分で気が付いて止めるのはかなり難しいでしょうね。

 

自分の考えを押さえつけているので、自分で何をしたらいいかも分からなくなり、主体性も薄れます。

正直遅かれ早かれ、どこかの時点で破綻せざるをえないやり方を無理やり続けてきた、と思わざるを得ませんでした。

それがたまたま今回起きたということになります。

復帰までの道のり2

ある程度回復してから、休暇期間中は随分と本を読み漁りました。

 

幸い、図書館はすぐ近くなので気になった本をひたすらWEB予約して、片っ端から読破していきました。人生で初めて図書館を有効活用しましたが、直接費用がかからないのは素晴らしいですね(もちろん住民税で間接的に支払っていますが)。

本からのインプットをこれほど増やした時期はなかったかもしれません。

今まで非常に損をした気分ですが、これから取り返します。

 

中でも非常によかったのは「幸せになる勇気」でした。 

一時話題になった「嫌われる勇気」の続編になります。

 

1番刺さったのは、その人にとって悪いことが起きた時の話とその捉え方でした。

ほぼ、この3つのことしかないんだそうです。

・悪いあの人

・かわいそうな私

・これからどうするか

 

この3つを三角柱にして、「悪いあの人」「かわいそうな私」の2つが見える面と、「これからどうするか」が見える1面で構成して、どの話をしたいか人に見せると「これからどうするか」を大抵選択するのだそうです。

 

結局、何かあった時に「悪いあの人」(あるいは何か)を攻撃する、そして何らかの被害を受けた「かわいそうな私」を自分で演出する、という事です。

変えられない過去にいつまでも執着するのは自分が「かわいそう」であることに何らかのメリットを見出している・・・自分自身で「かわいそう」であることを自覚の有無にかかわらず選択してしまっている、そういうことだそうです。

でも過去は変わらないのでいくら文句や愚痴を言おうと、そこから前に進まないわけです。

 

そこで、「これからどうするか」という話になります。

自分の場合、頭で「過去は変えられないから、これからどうするか」ということは理解していましたが、「悪いあの人」「かわいそうな私」の視点は持っていませんでした。

ある意味ショックだったというか、無自覚に自分で不幸な理由づけをして実際に不幸になっていた訳ですから、不幸に依存している事に気が付いた時の恥ずかしさとか情けなさといったらなかったです。

 

これまでの悩みや怒り、恨みそういったネガティブな感情が一気にクリアになった感じがしました。

自分で「かわいそうな私」であることをやめない限り、周りが何を言ってもいつまでたっても終わらないんです。むしろ構われたり、同情を買うことでかえって悪化するのだと思います。

嫌だと思うのなら自分の責任でNoと言わなければならないし、今の環境が自分にとってよくないのなら環境を改善するか、そこから離れて別の環境に移ることも考えなければならない訳です。

 

 

先に幸せになる勇気を読んでから、嫌われる勇気を読んだのですが、幸せになる勇気の方が内容は濃かったですね。

個人心理学(アドラー心理学)は、ある意味うつ的な状態にある人にとっては劇薬的な捉え方もされるようですが、実際受け入れられるだけの余裕を持たないとかえって苦しくなることもあるかもしれません。

 

過去も周りの状況も関係ない、自分で何かのメリットがあると判断して自分で選択した・・・そういう事になるので、これは厳しいです。

だから、自分で幸福も不幸も選び取ることができる、まさに「幸せになる勇気」を持たなければならない、という訳ですがこれもなかなかに厳しい指摘です。

 

ともかく、本当の意味で立ち直るのに大きな力になった本でした。